昭和10年〜19年
昭和10年
(1935年)
箱根駅伝2位。中村清が1区でトップ。
日本学生 5度目の優勝
関東学生は11度目の優勝。
主将の金山(旧姓野秋)は部活動を短距離,中長距離、跳躍、投てきの4班に分け、それぞれ班長を選んで戦力ア
ップを計り全試合に勝った。
ブタペスト国際学生陸上に西田修平(OB)、田中弘,村上正が出場。西田が棒高跳で4m30の日本新で優勝。
昭和11年
(1936年)
箱根駅伝はまたも2位。
関東学生、日本学生とも優勝。
第11回ベルリン・オリンピック
棒高跳で西田修平(OB)が4m25で2位。安達清が4mで6位。
走高跳で矢田喜美雄が1m97で5位、田中弘が1M94で5位。
この他、窪田博芳、中村清、村上正、清水孝太郎、張星賢、植野登が出場した。

西田修平と大江季吉(慶大)のメダルが決まったのは午後9時過ぎ、疲れた二人は順位決定戦を放棄したが、公式記録では試技数の少ない西田が2位だった。
東京朝日新聞の見出しは「歴史的美技に十萬観衆陶酔」。(当時は右から左)。
「順位は問わず」
私達の順位に就いては今のところ、内輪同士で決めるのだからどうなっても良いが、メダルだけは二人の記念の為に日本に帰ってから二,三等のメダルを半分に割り、それを継ぎ合せて一つにして各自が持ち度いと思っている」。
                                                    東京朝日新聞夕刊の二人の談話より
教科書にも載った「友情のメダル」は現在秩父宮記念スポーツ博物館に飾られている。
昭和12年
(1937年)
箱根駅伝は2位。日大が3連覇。
関東学生は13連覇、日本学生は3連覇。
昭和13年
(1938年)
箱根駅伝は、慶応大学の主張する「駅伝は中長距離強化の点からみて不適当である」にわが部も同調、不参加
と決めた。(競走部70年史)
関東学生は文理大に屈し、連勝がストップした。
日本学生も3位に甘んじた。
日本選手権の砲丸投で青木半冶(昭和12年卒)が12m64で優勝。
「七不思議の一つ」
グラウンドといっても一周280m、それも、ど真中に枝の張った大木がある。
フィールドの真中だから、投てきの練習は専ら砲丸ぐらいのもの。やり投で60mを投げる植野はいつもグラウンドの西側、陸軍病院の切り立った高い土手の中腹めがけて投げていた 実距離を投げられないのだから、自分の実力は競技会に出てみなければ解らない。それにしても、こんなグラウンドからロング投てきの名選手がぞくぞく生まれたのは早大競走部七不思議の一つに数えられるだろう。
                                                          木内喜八郎(昭和13年卒)
昭和14年
(1939年)
箱根駅伝は早、慶、明、法が不参加。
関東学生は文理大に14点差をつけ優勝。
日本学生は2位。
昭和15年
(1940年)
東京オリンピック開催中止。
箱根駅伝は不参加。
関東学生、日本学生は共に2位。
昭和16年
(1941年)
東京〜青梅間大学専門学校鍛錬競走大会開催。
明治神宮水泳場前から青梅の熊野神社までの往復110キロ8区間で早稲田は4位。
関東学生優勝。日本学生は時局により中止。
12月8日、太平洋戦争に突入。
昭和17年
(1942年)
箱根駅伝は中止。
4月18日、早慶戦校内予選の直前、米軍機が来襲、鶴巻町の病院などに爆弾を落とす。
「日本初空襲」
午後12時30分ごろ、天徳温泉入り口石段に坐り,アップシューズの紐を締めていた。
突如として、怪飛行機飛来。黒色だ。頭上低く、穴八幡社の樹木の梢をかすめつつ、西の方、戸山ヶ原陸軍技術本部の方へ飛び行く。その一機めがけて高射砲破裂す。残念ながらあまりの低空飛行ゆえ、弾は敵機の上空で破裂するのみ。
警報情報明確ならず,人々多く、人々ただ右往左往するのみ。そこかしこより焼夷弾炎上、黒煙天に沖し、早稲田界隈、いたずらに騒然たり。
                                                            石田芳正(昭和17年卒)
早慶戦、入場式ではルソン島で戦死した棒高跳の大江季雄(慶応)らの遺影を選手が抱いて行進。
関東学生は2位、
日本学生は文理大に雪辱して優勝。
日本学生陸上競技連合は大日本学徒体育振興会に合併され、6月下旬解散。
「陸上競技」は「陸上戦技」と改められようやく存続が許された。
昭和17年、配属将校に呼び出された和田明は、主将として陸上競技の存在価値を示せと迫られ、クリークに見立てた大隈庭園の泉水を武装して棒高跳で越えることになる。
「競走部を守る」
私は教練服に脚半を巻いて、ドタ靴に帯剣、その上背に銃を負わされて棒を持つ。
本当に情けなかった。必死だった。というのは,棒がどこに突き刺さるか、棒の先が滑らないだろうか、万一棒の先端が止まらず少しでも滑ったら池へドブンだ。
その場で競走部は廃止になる。跳んだ瞬間、幸運にも棒の先端は金魚の巣のくぼみに止って成功した。この金魚の巣が大東亜戦争から陸上競技を守ったことになる。
一つ決まれば後は簡単。長距離は伝令に役立つ,短距離は突撃に重要である。以下右へ習えで「陸上競技は有意義」 となった。
他愛も無い話である。
                                                            和田明(昭和18年卒)
昭和18年
(1943年)
陸上の全国大会は姿を消したが、5月9日に日吉で早慶戦だけは行なわれた。
早稲田は30-27で19連勝を飾ったが、この第22回が戦前最後の大会となった。
「最後の早慶戦」
スパイクは針がちびり、側甲の皮もすり減っている。グラウンドも荒れていた。
が、みんな、走り、跳び、投げた。(中略)
いつ会えるか判らぬ友と肩を組み、精一杯に「都の西北」を歌った。
歌う顔には、陸上人がスパイクをはけない時「だんじてスパイクをはいたんだ」という心意気、満足感がきらきらしていた。
競走部の誇りの中に、戦前最後の早慶戦を終え得たのは幸運だった。
                                                            長谷川敬三(昭和19年卒)
昭和19年
(1944年)
明治初年から続いた陸上競技も、戦争で中断のやむなきに至る。