昭和2年〜9年
昭和2年
(1927年)
箱根駅伝は大正天皇の喪に服して4月開催。
参加は5校、往路,復路1位で優勝。
メンバー(本野仁冶、窪田正克、玉川政吉、小山勝太、岡井豊、枇杷坂実、高野定二、川岸茂夫、藤木勲、縄田尚門)
2区の窪田はスケート部員ながら堂々の区間新。
上海で行われた極東大会に12人が出場、織田幹雄が走幅、三段、十種で沖田芳夫が円盤、住吉耕作がやりで優勝。
関東学生優勝。南部忠平は100、200m2冠。
「スター的存在」
プロ野球などなかった当時、日本陸上界をリードする早大競走部の選手はモダンガールにとってスター的存在であった。
早高のグラウンドにまで女性群が押しよせた。
沖田は練習場へ女などもってのほかと思っていたから、若い選手のため警戒を怠らなかった。沖田に見つかると理由をとわずドンドン追い返された。
                                                             沖田芳夫伝より
昭和3年
(1928年)
箱根駅伝2位。
5月、第1回日本学生(日本インカレ)神宮で開催。早稲田は140点で初優勝。2位の慶応は55、5点。織田幹雄、110mH、走幅跳、三段跳で優勝。
7月、山本忠興部長が奔走してロンドンでケンブリッジ・オックスフォード大学連合軍「アキレス倶楽部」と対抗戦を行う。34−31で惜敗したが、単独大学の海外遠征の先駆けとなる歴史的な日となった
第9回アムステルダム・オリンピック
織田幹雄 三段跳 15m21 優勝
南部忠平  〃  15m01 4位
木村一夫 走高跳  1m88 6位
この他に沖田芳夫,住吉耕作、古山一郎、井沼清七、
大沢重憲、山口直三が出場。

陸上の日本代表男子16人中9人を占めた
「初の金メダル」
遂に長い間の苦心は報いられた。日章旗が高々と掲げられ国歌が奏せられた時は自然と頭が下がり国旗をあふぐことさえ出来ず涙が自然にあふれ出て来た。スタンドに待っていた選手諸君にかつがれて控室に帰った時にはまるで夢を見て居る様だった。広田公使をはじめすべての人々からの喜びの言葉をうけても返す言葉もない。
永い永い競技生活を通じて初めて勝利の喜びにひたる事が出来た。成績は思わしくなかったけれども重い重い責任をはたし得たことは何よりも嬉しい。
                                                             織田幹雄の日記より
五輪後、早大チームに京大の相沢巌夫を加えパリの第2回国際学生大会に参加、61点を獲得し第3位の好成績を収めた。
これが日本初の国際学生陸上出場であった。
「競走部に入る」
(トラックは)一周280M,中央に大木があり、投てき場を二つに分け、また跳躍場を仕切るうまい場所にあった。後のことになるが、この木の根っこに腰を下ろして叱られたことがしばしばという、にくき場所でもあった。
日本の一流選手が揃っている早稲田のトラックにしては、甚だお粗末な感じがしたが、出てきた顔を見れば大したもの。あれが沖田さん、住吉さん、こちらが織田さん、南部さん、アサヒスポーツで見た顔が目の前にあるのだから驚きだ。(中略)
めったに先輩にみてもらうことはないが、ときたま声をかけられることがある。織田さんも別の種目の練習があるので遅くなり、たまたま棒高跳のところに来られて,注意を受けることがある。こんな時は下宿に帰った後も、うれしくて思い出しては快哉を叫びたくなることもあった。
                                                            西田修平(昭和10年卒)
昭和4年
(1929年)
牛込区早稲田町37番地に競走部の合宿所完成。
箱根駅伝2位。明治が5度目の優勝。
日本学生優勝。関東学生優勝。
西田修平は棒高跳の優勝だけではなく、110mH,三段跳、1600mリレーでも入賞している。
早慶戦は34−23で勝つ。早慶はこの年まで5年間,関東学生、日本学生で1、2位を続けており、陸上ファンで神宮のスタンドは超満員だったという。
「個性的な練習」
棒高跳の笠原寛(昭和4年卒)は,練習を始める前に必ず小石を30個ばかり拾ってきてスタンドの横に積んで置き、1回跳ぶごとに小石を一つずつ投げ捨て、全部なくなるま で跳ぶというのは有名だった。またやり投の尾崎尚文(昭和4年卒)は研究熱心の余り、深夜に近所の空き地で思い付きを実験していたところ、巡回中の警察官にみつかり、どう弁解しても聞いてもらえず、とうとう留置場へいれられてしまったという。
昭和5年
(1930年)
箱根駅伝、明治に大差をつけ4度目の優勝。
メンバー(小山勝太、吉田芳春、小原孝一、倉西眸、藤木勲、鈴木憲雄、宮田信一、中島幸基、河田薫、角谷保次)藤木勲(昭和5年卒)は5回連続出場で、3回優勝に貢献した。
東京で行われた極東大会にOBを含め16人出場。
日本学生3連覇、関東学生は6連覇。
国際学生・ダルムシュタット大会は14人の代表中7人を早稲田が占めた。
この年,主力選手はシベリア経由で欧州に遠征し、8ヶ国で試合を行った。
織田幹雄は「遠征は資金が十分に集まらず,欧州での競技で大部分を稼ぐほかなかった。滞在費、旅費、日当などを得て、旅興行のように国際対抗、国際競技に出るほかなかった」と回想している。
昭和6年
(1931年)
箱根駅伝連覇、5度目の優勝。
メンバー(角谷保次、田中定次郎、川田徹、宮田信一、藤木勲、小原孝一、倉西眸、武田市太郎、多田秋衛、中島幸基)
日本学生、文理大に敗れ2位。
関東学生は文理大に雪辱し7連勝。
早慶戦は最後のリレーを制し,1点差で逆転勝ち。
10月、神宮で第1回一般対学生
三段跳で織田幹雄(OB)が15m58の世界新記録。更に走幅跳で南部忠平(OB)が7M98の世界新。
同じ場所で日本陸上初の世界新記録が生まれた。
「7m98」
私は織田君の偉業を目の前にして、奮起して走幅跳の助走についた。もちろん織田君が
三段跳で世界記録を出したから、自分も走幅跳で世界記録を作ろうといった気持は少しもなかった。偉いことをしでかした、私も日本記録ぶらいは跳ばないとかっこうがつかないというわけ。
本番、一発目に7m98、計測係は「忠平さん惜しいな、実測8m03あったよ」といった。この時、8メートル跳んでおれば人類で初めて8メートルを跳んだということになったのだと、今でも残念に思っている。
                                                           南部忠平自伝より
この記録は日本記録として38年間破られなかった。
昭和7年
(1932年)
箱根駅伝 3位。10区で慶応が逆転初優勝。
日本学生 文理大に9点余及ばず2位。
関東学生 25点差で雪辱、8連覇を飾る。
第10回ロサンゼルス・オリンピック
南部忠平(OB)三段跳で15M72の世界新で優勝。走幅跳も7m45で3位。
棒高跳の西田修平は4m30の日本新で銀メダル。
走高跳の木村一夫は1m90で6位。
400mリレーは2走南部アンカー中島亥太郎で5位。
1600mリレーも1走中島で5位。
この他、織田幹雄(OB)、張星賢、住吉耕作が出場
「三段跳優勝」
深呼吸をする。もう一度する。そして、三度目の深呼吸をしたあとその吐息をちょっと 吸い返すようにして吐息をつめると、猛然とスタートを切った。踏み切った。
ホップ・ステップ・ジャンプー逆くの字型に折り曲げた体がぐんと伸びて、世界記録を示す日の丸の小旗よりはるか前方に落ちた。その瞬間「勝ったー」「世界記録だ」と直感すると、にわかに世界中をがっちりと自分の胸の中に抱きこんだようなような歓びと快感が一瞬、全身の毛細血管から体外にほとばしった。
                                                            南部忠平
昭和8年
(1933年)
箱根駅伝 1区からゴールまでトップを守り、史上初の完全優勝を達成。
記録は初めて13時間を切る12時間47分53秒。
メンバー(朝倉充、中井賢二、小野利保、中田正男、中島幸基、小原孝一、多田秋衛、角谷保次、鈴木正数、川田徹)
中島幸基(昭和9年卒)は6回連続出場で、このうち3回優勝に貢献している。
日本学生、優勝。関東学生、優勝。
昭和9年
(1934年)
箱根駅伝 3区から独走で2連勝、7度目のV。
メンバー(多田秋衛、中田正男、小野利保、角谷保次、中島幸基、鈴木正数、金恩培、渋谷松夫、中井賢二、朝倉充)
選手のまわりをWの旗を振る応援の自動車やサイドカ−が取り囲んでいる写真が残っている。
「駅伝の練習」
当時の早稲田の練習はてんでんばらばら、みんなが好き勝手に練習をやっていた。
僕が思うままにリードして練習を独断専行したのは、昭和7年頃からだ。(中略)
練習にはいろいろ工夫した。1分おきに1人ずつ走らせたり、強い者には10マイルを課したが、弱い者はその半分の5マイル、または7マイルにし同時に走らせた。
強い者と弱い者が一緒では、弱い者は途中までしかついていけないので、この方法をとった。
                                                             角谷保次(昭和9年卒)
5月マニラで開催の極東大会への満州国の参加問題で国内の意見が分かれ、早稲田は不参加を決めた。
代表に選ばれた競走部員6人がマニラに向かい、除名されたが、秋には復部を許された。
日本学生は不参加。それに代えて神宮で紅白に分かれ記録会を行い選手層の厚さを示した。
関東学生は3点差で文理大を破り10連勝。