昭和20年〜
昭和20年(1945年) 8月15日、敗戦。
昭和25年版「WAC名簿」に記載されている「戦死者」は10人。
12月、東大競技場に有志が集まって競技会が行なわれ、日本陸上は復活した。
推進者は織田幹雄、吉田正平、西田修平ら早稲田OBである。
「陸上復活」
もう寒さも加わった12月9日、復活陸上競技会を開いた。日本全国からその機を待ちかまえていたように、陸上競技の愛好者が集まってきた。押入れのすみにでもほうりだしてあったのか、いやもっと大切にしまっていたであろうスパイクシューズを、みんな履いていた。長い間練習というものから遠ざかっていたから、足も、腕も伸びず、運動会時代を思わせるような競技ではあったが、集まる人の顔には、喜びがあふれていた。
                                                          織田幹雄(走高跳に出場)
昭和21年(1946年) 9月15日、ナイルキニック・スタジアムと改称した旧神宮競技場で早慶戦。
メンバーも用具も不足のため110mHが5000m、棒高が三段、やりが砲丸に変更になったが、19-38で慶応に敗れる。
関東学生はわずか13点で9位。
21年から25年まで監督は西田修平。 (戦前は監督という制度がなかった)
昭和22年(1947年) 復活した箱根駅伝は10校が参加して4位。関東学生は4位。
早慶戦は28-29の1点差で連敗。
日本学生は4位。
「焼跡のグラウンド」
昭和21年に大学に復学した当時は、新宿近くから大隈講堂の時計台が見え、早稲田近辺には焼跡が点在し、殺風景な街並みでした。(中略)
戦前の戸山のグラウンドには、高等学院の仮校舎が立ち、復部してから、学院跡地の瓦礫の山を、たしか12〜3名の部員で後片付けして60〜70mくらいの走路をつくり、反復練習で汗を流したことを覚えています。
                                                    岡田重義(昭和28年卒)
昭和23年(1948年) 箱根駅伝は7位。
関東学生、日本学生とも3位に浮上。
早慶戦は40.5-16.5で快勝。
日本選手権の三段跳で長谷川敬三(OB)が
15m62をマーク、ロンドン・オリンピックの優勝記録を22センチ上回った。
「幻のグラウンドに」
第一高等学院は、20年の空襲で焼失し、瓦礫と化してしまったが、幸にグラウンドだけは残り、22年頃まで使用することが出来た。
しかし,23年、このトラックの上に新制高等学院の校舎が立ち、幾多の名選手が生まれた戸山町のグラウンドは、これで永遠に姿を消すことになる。
                                                           濱部憲一(昭和22年卒)
                                      
この後、練習は女高師(御茶の水大)、東大駒場、女子学習院(現学習院大)のグラウンドを渡り歩くことになる。
昭和24年(1949年) 箱根駅伝は10区で一度はトップになりながら、明治に再逆転され2位。
関東学生、日本学生とも3位。
早慶戦は大勝したが、後に選手の学籍問題で24、25年はノーゲームになった。
昭和25年(1950年) 箱根駅伝2位。
2区を走った、後に映画監督になるランナーは駅伝の練習をこう回想する。
「街角を走る」
戸塚のグラウンドからロータリーを右折して、戸塚の台地を大久保に突っ走り,伊勢丹の交差点を左折し、四谷を経て半蔵門に出、更に宮城の堀端を三宅坂に下り、神田から江戸川橋に走り抜け、音羽町の坂を上りつめ、大塚から池袋、目白と廻ってグラウンドに向けてフィニッシュをかける駅伝の練習コースを、今の私は、車で走る。
どの街角にも、その当時の面影が残っており、私の過ぎ去った青春の日の記憶が鮮烈によみがえってくる。そこには、まぎれもなく戦後の日本が焼きつけられており、私が生きている時代の刻印が、ありありと迫ってくるのである。
                                                            篠田正浩(昭和28年卒)
昭和26年(1951年) 箱根駅伝は3位。
3月、インドのニューデリーで第1回アジア大会。走高跳の石川行男、砲丸投の伝田扶夫の両OBが2位となる。
41才でコーチの西田修平が棒高跳に出場。3m61で3位に入った。
幻のグラウンドの下に、念願の400mのトラックが完成。
監督は中島幸基(27年まで)
「石ころ拾いとローラー引き」
昭和26年春、当時の末高信部長、中島幸基監督のご尽力により、現記念会堂の場所に400mのトラックができた。と同時に元騎兵隊の宿舎を譲り受け改造、汽車の三等寝台のような合宿所もできた。
毎日練習前に約1時間グラウンド整備、特に入学したばかりの上木道夫、小掛照二、伊藤修、佐々木秀幸君ら40数名は、あこがれのワセダに入って毎日一列に並んで石ころ拾いとローラー引き、練習の時間が少ないので真剣そのもの、充実した練習風景だった。
                                                            柄 元雄(昭和27年卒)
26年卒の佐藤(現熊倉)重は初の女子部員。
「毎日、学習院のグラウンドで砲丸、円盤を投げて拾うの連続だけ。重いバッグに円磐を入れて、更に重くして持ち歩いたことだけが思い出」 だったという。
昭和27年(1952年) 第28回箱根駅伝。終盤の中大との激闘を制し18年ぶりの優勝。
2区の牧野が戸塚の踏切で列車通過のため約1分ロスをする時代であった。
メンバー (沼野正、牧野和浩、中村保徳、下村秀甫、山田俊、白鷺靖昌、水田富士利、園部光昭、衣笠冶重、水野勝)。
関東学生は3位、日本学生は中大についで2位。 
ヘルシンキ・オリンピック。日本は16年振りに参加。ヘッドコーチは織田幹雄。三段跳にOBの長谷川敬三が出場。
昭和28年(1953年) 箱根駅伝は2位。NHKのラジオ中継始まる。
関東学生3位。
日本学生は中大に4点差で2位。
正岡由紀子が関東学生の100、200mで4位、日本学生では100m6位となり、早大競走部史上、初の女子の入賞。
9月、ドイツ・ゾリンゲンで上木道夫が1000mで2分29秒6の日本新記録。これは早大選手の戦後第1号の日本新記録である。
監督は青木半冶(31年まで)
昭和29年(1954年) 箱根駅伝は、中大との死闘の末、アンカー昼田哲士の失神ゴールで劇的な優勝。
写真を見ると14番のゼッケンをつけた昼田はゴ目をつぶってゴールに向っている。
往路は5区中村保徳の快走でトップに立つ。
復路7区で逆転されたが,9区衣笠冶重が区間賞で中大を振り切った。
NHKのラジオ中継で全国に放送され、箱根駅伝を語る際に必ず登場する話である。
メンバー(鈴木重晴、稲葉正一、沼野正、政成孝治、中村保徳、水野勝、上木道夫、白川太一、衣笠冶重、昼田哲士)
「涙のゴール」
芝の増上寺を目前にして昼田君のスピードが落ちた。中村監督のメガホンがイチニ、イチニの合図から早稲田の校歌に変わった。走り方がふらついている。
バスの中のわれわれ9人は顔面蒼白になった。監督がサイドカーから降りて走った。大声で激励されながら昼田は目を瞑って走っている。すごくスピードが落ちた。(中略)
前に集ってバスの運転手の背中に9つの顔が心配そうに並んだ。
昼田が可哀相だ。皆感じている。我々があと2秒、3秒がんばっていたら、20秒〜30秒の余裕を昼田に作られたのだ。あそこまで昼田を苦しませずにすんだのだ。
声援が声にならず、いつの間にか涙を流していた。増上寺からゴールまでは長かった。つらかった。しかし、昼田君は最後まで頑張ってくれた。1位でゴールインしてくれた。みな涙顔で抱き合った。 
                                                            沼野正(昭和29年卒)
当時は競走部専用のバスで選手を応援出来た。
マニラの第2回アジア大会には鈴木重晴、上木道夫、昼田哲士、石川行男、佐藤博にOBの中島武彦、深沢通之助、白鷺靖昌、川田幸敬が出場。
関東学生は3位、日本学生は中大についで2位。
早慶戦は1点差で逃げ切り勝利。
「約束のスキヤキ会」
秋の神宮でのWK戦は予想通りの大接戦の末、29対28の1点差で昨年の雪辱を果たした。当時の青木監督と約束した、「勝ったら全員にスキヤキを、負けたら全員坊主になれ!」により、その夜、五番町青木邸の中庭でご馳走になったスキヤキ会での、ビールと肉のうまかったこと。
                                                            上木道夫(昭和30年卒)