昭和30年〜
昭和30年(1955年) 箱根駅伝は3位。
この年から1月2、3日開催が定着した。
関東学生、日本学生ともに4位。
走高跳で室美恵子が関東で2位、日本インカレで4位となり女子のフィールド入賞第1号。
昭和31年(1956年) 箱根駅伝は6位。
関東学生は5位、日本学生は4位。
10月仙台・宮城野競技場の日本選手権、三段跳で小掛照二(OB)が16m48の世界新記録!
「予感」
あの日は、グラウンドに出たとたん16mがすごく短く感じられた。すぐ織田さんに「今日は必ず日本記録を出します。ぜひそばで見ていて下さい。育てていただいた織田さんとまず握手がしたいのです」といった。
織田さんは「そんなに狙っちゃだめだ。今日はラジオの解説があって上で見ている。絶対に狙ってはいけないぞ」と、繰り返し念を押して放送席に向かわれた。(中略)
記録は16m48の世界新記録だった。最初の握手は23年間、三段跳の日本記録をもっておられた田島(直人)さんとした。次にメルボルン・オリンピックの監督に決っていた西田(修平)さんと。
                                                             小掛照二(昭和30年卒)
メルボルン・オリンピック
小掛照二、鈴木重晴、石川行男の3OBと桜井孝次が出場。
三段跳で桜井が7位、小掛は8位で入賞を逃がす。
監督は西田修平。
昭和32年(1957年) 箱根駅伝は最下位から追い上げ5位。
復路は優勝の日大を2分弱離してトップ。
早大記念会堂建設のためグラウンドが使用不能になりマネージャーの仕事が増えた。
「渡り鳥生活」
昭和32年の春になって、慣れ親しんだ戸山町グラウンドに早稲田大学記念会堂建設のため、杭打ちが始まった。一方、東伏見の新グラウンドの方は完成が1年後ということで、練習のためのグラウンドに事欠くことになってしまった。(中略)
その頃、選手は足代も大変だったし、道具を抱えて電車で遠方のグラウンドへ通うのも大変な苦労だった。大学の自動車部の協力を得られないかと思っていたところ、河野謙三先生のご次男の武雄さんが自動車部の主将をしておられ、幌付きのトラックを運転手付きで提供することを快諾された。
今日は三鷹のグリーンパーク、明日は東京教育大の幡ヶ谷という具合に,幌付きトラックで乗り込んだものである。
                                                            勝家敏雄(昭和33年卒)
東伏見に新グラウンド。
監督は沖田芳夫になる。(41年まで)
6月、藤井忠彦が武蔵野の米軍対関東の5000Mで14分29秒8の日本新。
ベルン・オリンピックで出した村社講平の記録を20年振りに更新した。
関東学生は中大に17点差で2位だったが、トラックでは優勝。
7月6、7日に松本で行なわれた日本学生では1日目中大に3点リードされたが、2日目に盛り返して97点を獲得、逆に15点差をつけて15年ぶりの総合優勝を飾った。
トラックも優勝したが、無得点はハンマーだけという総合力を見せた。
70年史には、天皇杯を囲んで円陣を組み校歌を歌っている写真が載っている。
昭和33年(1958年) 箱根駅伝は6位。
5月、新装の国立競技場で第3回アジア大会。
ヘッドコーチは中村清。久保宣彦、桜井孝次、太田富夫、鈴木章介にOBの小掛照二、中島武彦、石川行男が出場。
関東学生は2位。
7月、国立で初のナイター、期間も3日間で行われた日本学生は堂々の2連覇
雨中の闘いで早稲田の総得点はは108.5点、2位日大に24点差をつけた。
優勝は1500mの田中清司、5000mの中山昂、走高跳の桜井孝次、やり投の三木孝志。
桜井は110mH,走高、走幅、三段で合計19点を獲得する大車輪の活躍だった。
沖田監督が当時流行していた石原裕次郎の歌をもじって「得点とってくるの、俺は待ってるぜ」と選手を送り出した話は、今でも語り継がれるエピソードである。
以下は当時のマネージャーの回想。
「記念撮影は瞼に」
夕闇迫るグラウンドで優勝杯をもらい、表彰を受けた後、現役のメンバーが、まず沖田監督を胴上げし、続いてスタンドから下りてきた父・河野一郎のがっしりした体も二度三度と宙に舞った。感激の記念撮影はそれからだったと記憶している。
しかし,記憶だけで肝心のその写真はない。きっとどなたもお持ちでないはずだ、(中略)
驚いたことに、しっかり撮ったはずの写真屋さんがどうした訳かすべて失敗していたのだった。数日後、しょんぼり現れた写真屋さんが申訳なさそうに差し出したマンジユウは誰かの胃袋に消え、瞼に焼きついた光景だけが記念となった。
                                                            河野洋平(昭和34年卒)
昭和34年(1959年) 箱根駅伝は6位。
アンカー田中清司が新橋付近で一般車両に接触されて転倒、応援バスが総立ちになったのはこの時ではなかったか。
関東学生、日本学生とも80点台で2位。
トリノのユニバーシアードに久保宣彦、三木孝志、桜井孝次(OB)が出場、桜井が三段跳で2位。
昭和35年(1960年) 箱根駅伝は5位。
関東学生、日本学生はともに3位。
ローマ・オリンピック
三段跳に太田富夫、桜井孝次(OB)が出場。

やり投の三木孝志がこの年5回の日本新記録。
この後39年にかけて合計9回の日本新は早稲田の戦後のフィールドでは最多記録。
昭和36年(1961年) 箱根駅伝は7位。中大が最多のV10。
関東学生は4位。
日本学生は奮起して2位。
ソフィアのユニバーシアードに船井照夫、三木孝志、下哲とOBの飯島恵喜、太田富夫が出場。三木が6位,太田が3位、下が4位。
昭和37年(1962年) 箱根駅伝は史上最悪の12位。
関東学生、日本学生とも4位。
ジャカルタの第4回アジア大会に桜井、鈴木、章介、飯島、太田、三木、船井の6OBが出場。三段跳で桜井、やりで三木が優勝。
2年後の東京オリンピックを前に、亀倉雄策のポスター発表。100mのスタートを表現した有名な作品だが、日本人のモデルは早大競走部員だった。
「私の秘密」
東京オリンピックのポスターのモデルとして私と岡本政彰君が選ばれた。
外国人は立川基地のアメリカ軍の長距離選手だった。国立競技場で撮影したが、短距離選手の私達とスタートのタイミングが合わず、何度も撮り直しをした記憶がある。
随分昔の話だが、NHKの人気番組だった「私の秘密」に出演したことがある。
                                                           久保宣彦(昭和35年卒)談
昭和38年(1963年) 箱根駅伝は10位。
関東学生は2位。
日本学生は5位。
ブラジルのユニバーシアードに飯島秀雄、下哲とOBの船井照夫、三木孝志が出場。
三段跳で下哲15m99で優勝
昭和39年(1964年) 箱根駅伝は7位。中大が6連覇。
関東学生は2位。
日本学生も2位。
6月、西独の競技会で飯島秀雄が100mで10秒1の日本新記録。
第18回東京オリンピック
開会式の最終聖火ランナーは1年生の坂井義則
、バックスタンドを軽快に駆け上がり,聖火台に点火した。
大会には飯島秀雄と蒲田勝、船井照夫、飯島恵喜、三木孝志、桜井孝次、太田富夫、鈴木章介の7OBが出場。総監督は織田幹雄、監督は南部忠平。
期待された100mの飯島は準決勝で敗退、10000mの船井の14位が最高だった。
十種競技の鈴木章介は15位、昭和33年から38年にかけ5回の日本新を作った。
後にプロ野球巨人軍のランニングコーチとなりV9に貢献した。