昭和40年〜41年 |
昭和40年
(1965年) |
箱根駅伝は6位。
関東学生は3年連続2位。
日本学生は4位。
ブタペストのユバーシアードには飯島秀雄、
大工敏雄、坂井義則、七沢英次、下哲(OB)が出場。
飯島は100Mでオリンピックのメダリスを破り優勝。 |
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昭和41年
(1966年) |
箱根駅伝は7位。復路一斉スタートに。
関東学生は3位。
日本学生は4位。
飯島秀雄、ヨーロッパ遠征で2度の10秒1
12月バンコクでアジア大会。
飯島、坂井義則、下哲(OB)が出場。
400mの坂井、三段の下が2位。飯島は肉離れで3位。 |
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昭和42年
(1967年) |
箱根駅伝は10位。往路、復路、総合の3賞制が導入された。
関東学生は4位。
日本学生は23点で8位に沈んだ。
ユニバーシアード東京大会には、井上明敏、 坂井義則、落合三泰、土谷善建(OB)の4人が出場。
監督は木内喜八郎。(44年まで)
「早稲田アスレチック倶楽部」会報創刊。 |
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昭和43年
(1968年) |
箱根駅伝は10位。
4月、国立で第1回東京六大学陸上。105点で法政に35点差をつけ優勝。
関東学生は30点で6位。
日本学生は31点で6位。
メキシコ・オリンピック
飯島秀雄(OB)が出場、準決勝に進んだが10秒4で8着、涙を呑んだ。
陸上監督は村上正(OB)
飯島秀雄はリレーを含めると通算12回の日本記録を樹立した。 |
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昭和44年
(1969年) |
箱根駅伝は1区のブレーキで往路は14位。
復路は4位だったが、総合では14位。
史上初の予選会からのスタートとなった。
東京六大学は法政に負けて2位。
関東学生は6位。
日本学生は得点がわずか8.5点で13位という大不振。
箱根駅伝予選会もメンバー不足で不出場という深刻な事態となった。 |
「低迷期」
練習に入っても、ブロック練習になると長距離と投てきは、広いグラウンドにパラパラという状態でした。特に長距離ブロックは、一般学生を含め10名前後で、5000mで16分を切る選手は1〜2名で、他の者は16〜18分台の選手。
大学に入って本格的に始めた選手や、高校時は他の選手で駅伝のために入部した素人の集団で、トラックからロードに移行する時などは、スキー部の距離の選手と一緒に走っても勝てる選手は半分もおらず、真剣にスキー部の選手を登録しようかと話し合ったものでした。
井沼 久(昭和45年卒) |
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昭和45年
(1970年) |
箱根駅伝は不出場。
関東学生は4位。
日本学生は6位まで回復したが、早慶戦は2点差で敗れた。
監督は和田明に。和田は浜松の自宅と東伏見を往復し指導に当たった。(48年まで)
箱根駅伝予選会は4位で通過。 |
「されど志は失わず」
その年45年の中長距離は、箱根駅伝出場に的を絞り、夏休みを返上して走り込む計画を立てた。それには遠征合宿練習をするのが一番であり、効果も大きい。
しかし、いかんせん我々学生には金がないし、部の懐も楽ではないというので、知恵を絞った。メンバー部員の家に泊まり、食費を出来るだけ安くしてもらい、その見返りとしてその家の家業を練習の合間に手伝うということで約束を取り付け、他はユースホステルに泊まり、出費を押えようというものである。
静岡県の三島を皮切りに、三重、四国、広島、山口、門司、熊本と、かくして西日本縦断合宿旅行が実現した。(中略)
数週間を走りこんだ成果を霧が峰の競走部全体合宿で更に磨きをかけ、用意周到にして臨んだ予選会。それぞれが力を出し切り無事通過した時には、全員が手を握り合って喜んだものである。
吉田光夫(昭和46年卒) |
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昭和46年
(1971年) |
箱根駅伝は13位。
関東学生は4位。
日本学生は4位。
箱根駅伝予選会は27校が参加、この年から上位6校が本大会へ。惜しくも7位で出場ならず。 |
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昭和47年
(1972年) |
箱根駅伝は不出場。
関東学生は5位。
日本学生も5位。
ミュンヘン・オリンピック
参加はコーチの小掛照二(OB)だけ、
初めて、競走部からの代表はなし。
箱根駅伝予選会は5位で通過。 |
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昭和48年
(1973年) |
箱根駅伝は15校出場、初の最下位。
関東学生は8位。
日本学生は13点で12位と低迷。
モスクワのユニバーシアードで石沢隆夫が100mで8位。
石沢はマニラの大会アジア選手権で10秒1をマークした。 |
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昭和49年
(1974年) |
箱根駅伝は50回記念大会。
過去の優勝校5校が招待され、20校が出場したが16位に終る。
監督は麻生(旧姓:山中)勝也に。〔51年まで〕
関東学生は7位。
日本学生は12位。
テヘランのアジア大会に石沢隆夫が出場、200mで2位。 |
「Wのユニフォーム」
白地に日の丸、エンジにW。この二つのランニングシャツに、数多くの思い出が染みている。だが、競技から遠ざかって10年以上たった今、振り返ってみると思わず苦笑いがこみあげるほど、強烈な印象が残ったのは「エンジにW」の方だ。
それは、全力を使い果たし、気力もふり絞ったという満足感を与えてくれたからだろう。
エンジにWは体を奮い立たせる不思議な魅力を持っている。
石沢隆夫〔昭和50年卒〕 |
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