昭和50年〜
昭和50年(1975年) 箱根駅伝は最下位の15位。
関東学生は11位。
日本学生は8点と2度目の一桁得点で13位。
早慶戦は最後のリレーで負け5年ぶりの敗北。
箱根駅伝予選会は7位で本戦出場ならず。
じっと我慢の年だった。
昭和51年(1976年) 箱根駅伝は不出場。
瀬古利彦、藤森良文ら33人の新入部員。
関東学生は11位。
モントリオール。オリンピック
今回もOB、現役の選手出場はなし。

早慶戦は17点差で快勝し、通算40勝。
日本学生は8位、瀬古が5000mで優勝し久し振りに校旗揚がる。
中村清が監督に。(〜58年)
箱根駅伝予選会は4位で通過。
「監督をおひきうけして」
(予選会では)20kmの自己の最高記録を10人の平均記録で3分20秒更新しました。こんな力が選手の何処に潜在していたのでしょうか。まだ弱い選手ですが、息の根が停まりかけても屈服しない選手が育ちつつあります。目が見えなくとも走り続け、早稲田を優勝へ導いたアンカーの昼田君のような選手が続々と生まれます。〔中略〕
電気を送らなければテレビ、冷蔵庫も、ただの箱です。選手に如何に理論や技術を頭と手足に教えても、歓喜力行せしめる情熱、闘志すなわち魂を授けなかったら、その選手はただの人です。先輩の皆様、どうか早稲田の再興のため、ご協力賜りたく存じます。
早稲田の伝統と精神は脈々として生き続け、見えなくとも、既に地中で芽を出し始めています。                                                                                  中村 清(昭和13年卒)
昭和52年(1977年) 箱根駅伝は13位。瀬古の花の2区デビューは区間11位。その瀬古からタスキをもらった4年生の横山菊勝の思い出。
「都の西北」
10キロを過ぎる。「調子がいいぞ、予想より2分いいぞ」という中村の言葉が横山の背をなぜた。「これが最後のレースだぞ横山」の声がかかるころ、おもむろに中村の「都の西北」がはじまった。「へへへ、例のやつが始まったな」と横山は思った。しかし、やがて横山の視界は霞んできた。涙が両目からあふれこぼれ落ちた。「この爺さんのために死ぬまで走ってやろう」横山は本気でそう思って走った自分が不思議だったと言う。
                                                             木村幸冶著「伴走者」より
瀬古が京都マラソンに挑戦,2時間26分0秒で10位となり新人賞。
「初マラソン」
魔の35kmでは,若造めマラソンを甘く見やがってとばかり、今だからそんな冗談も言えるけど、大袈裟じゃなくて死の苦しみ、50回ぐらいは歩こう、もうダメだと考えながらあえぎつづけたが、何とか完走、10位にすべりこんだ。
ジュースを10本近く立てつづけに飲んだそうである。そして「駅伝とはちがう」というのが、はじめにきた感じだった。
                                                            瀬古利彦(昭和55年卒)

東京六大学の走幅跳で曽田裕童が7m68の好記録。これは現在も早稲田記録である。
関東学生は45.5点で5位。
日本学生は36点で4位に浮上。
瀬古は長距離2冠を達成。
大井に移った箱根駅伝予選会は2位で通過。個人でも瀬古がトップ。
昭和53年(1978年) 箱根駅伝は6位、12年ぶりの1桁台。
瀬古は2区で7人抜きも、区間賞はならず。
関東学生は5位。
日本学生は4位。5000mの瀬古、110mHで藤森、4×100mリレーで優勝。
12月、福岡国際マラソンで瀬古が初優勝。 8年振りの日本選手の勝利。
「OB歓喜」
瀬古が平和台のマラソン・ゲートをくぐった瞬間、へんな男が右手から飛び出して、腕を振れとアドバイス、瀬古、表情をゆるめ頷いて最後の500mへ。この男こそ石田芳正、筆者もあわててOBへの敬称「氏」を忘れた。石田氏たまらず飛び出したのである。
ゴール寸前、瀬古の顔がゆがみゴールインするや立って待つ中村監督の胸に飛び込んで号泣、OB宅のテレビ画面も全部ボヤけて!!
                                                               WAC会報より
昭和54年(1979年) 箱根駅伝は4位に。
瀬古は花の2区で区間新記録、25年振りのトップで沿道の早稲田ファンを喜ばせた。
ボストン・マラソンで瀬古が2位。
関東学生は8年ぶりに4位。
日本学生も4位を保った。
福岡国際マラソンで瀬古が2連勝。モスクワ・オリンピック代表に。
織田幹雄、オリンピック・オーダー受賞。
昭和55年(1980年) 箱根駅伝は往路4区までトップ、日体、順天に抜かれたが25年ぶりの3位。
瀬古は2区で自己の区間賞を更新。
テレビの密着取材で立ちション姿まで放映される騒ぎだった。
関東学生は4位
日本学生も4位。4×100Mリレーは3連勝。
モスクワ・オリンピックは政治情勢を反映して日本は不参加
OBとなった瀬古はストックホルムの10000mで27分43秒5の日本新、東日本実業団のトラック20000mでも日本新。
福岡国際マラソンも3連勝。
絶好調の年だけに、惜しまれるオリンピック不参加である。
昭和56年(1981年) 箱根駅伝は1区14位から追い上げて5位。
4位とはわずか4秒差であった。アンカーの滝川哲也は4年連続の10区。
後に、通信社記者として報道車に乗って箱根を取材し、「自分のような人間でも、何ものにも替えがたい素晴らしい、誇りうる学生生活を送っていたんだ」と初めて気づいたという。
関東学生は55点で3位。
日本学生は56点で総合は3位だったが、1500mで遠藤司、110mHで礒繁雄、400mHで大森重宣が勝ち、トラック優勝をさらった。
瀬古利彦(OB)ニュージーランドで30000mに1時間29分18秒8の世界新記録。途中の25000mも世界新
ボストン・マラソンでも大会新で優勝。
ブカレストのユニバーシアードには山崎博仁、大森重宣、遠藤司、金井豊が出場。
昭和57年(1982年) 箱根駅伝は5位。9区坂口泰の区間新などで25年ぶりの復路優勝を飾った。
井上雅喜は4年連続で4区を走り、区間2位2回、4位2回は立派。
関東学生は72点、
2位に3点差の3位だったが、トラック優勝を果たした。
日本学生も68点で3位。
ニューデリーのアジア大会で藤森良文(OB)が110mHで優勝、大森重宣が400mHで2位。
河野謙三に早大名誉博士号。
織田幹雄、早稲田スポーツ功労者に(第1号)
昭和58年(1983年) 箱根駅伝は2位に浮上。復路は2年連続制覇。
9区坂口泰,10区遠藤司の区間賞で総合優勝の日体大に2秒差で勝った。
東京国際マラソンで瀬古利彦(OB)が2時間8分38秒の日本最高で優勝。
瀬古に都民スポーツ栄誉賞(第1号)
創部70年の記念すべき年に新入部員がわずか5人というピンチ。
関東学生は3位。
日本学生は50点で3位。
クウェートのアジア陸上は大森重宣(OB)が400mHで2位。
福岡国際マラソンで瀬古が4度目の優勝。
南部忠平、オリンピック・オーダー受賞。
「エンジに集約されるもの」
早稲田の代表として、インカレ、日本選手権、早慶陸上に胸にWのランニングで走る時は、気合と責任感が純粋なプレッシャーとして自分を奮い起こします。
今、自分がOB1年生になって、色々な試合に出場してみて、初めてそのことを痛感しました。新入部員の頃、エンジに憧れエンジを目指して練習し、それを着せてもらった時の興奮と気合ガ、今はほとんど無いのです。
これは単にランシャツの問題だけではありませんが、エンジが私自身に与えていた力は大きかったと思います。つまり、これはエンジ色というものではなく、早稲田大学競走部の選手としての誇りが、私に目に見えない力を貸してくれていたわけです。
                                                             大森重宣(昭和58年卒)
昭和59年(1984年) 第60回箱根駅伝は記念大会で20校が参加。
30年振りに10度目の優勝!
創部70周年の年に嬉しいお年玉となる。
2区坂口泰でトップに立ち、独走の完全優勝。
区間賞は5人。
2位の日体大を除く18校が10区で繰上げスタートとなる圧勝だった。
アンカー遠藤司の区間新記録は14年間破られず、75回からコースが変更になったため「永久保存」されている。
今年刊行された箱根駅伝80年回大会記念誌にはこう記されている。
「2日間とも好天に恵まれたうえ、早稲田人気も手伝って,沿道には前回を10%上回る約43万人がつめかけた」
メンバー(田原貴之、坂口泰、高橋昇、高橋雅哉、木下哲彦、越智房樹,伊藤雅弘、川越学、谷口伴之、遠藤司)
「完全優勝」
遠藤は区間新を狙ってはじめから快走、大歓声のうちに大手町のゴールに飛び込んだ。
かくして、20校出場の第60回の記念大会で、完全優勝を遂げ中村監督の長年の鍛錬がみのり、東海道に流れる選手に贈る監督の「都の西北」は、終始、明るく響きわたった。
ジープの上の瀬古コーチの声も弾みっぱなしであった。
総合タイム11時間07分37秒。2位日体大との差は実に15分18秒であった。
                                                      早稲田アスレチック倶楽部会報より
4月、中村清から鈴木重晴監督に(〜平成15年)
関東学生は3位ながら、トラックと多種目(7)優勝を飾った。
日本学生も3位。
9月、競走部創部70周年祝賀会(永楽倶楽部)。
「早稲田大学競走部七十年史」刊行。
ロサンゼルス・オリンピック。
監督はOBの小掛照二、選手で瀬古利彦、金井豊、大森重宣のOB3人が出場。
金井が10000mで7位に入賞。

今大会から8位までが入賞となる。
南部忠平、早大スポーツ功労者に。