大正年間
大正3年(1914年)
4月
三吉友之輔を中心に早稲田大学競走部が誕生した。
早大の運動部では8番目、最初のメンバーは14-5人であったという。
練習場は野球部の戸塚球場を借り。球場のそばのしもた屋の8畳一間を借りて部室にしていたという。
三吉は近くの陸軍戸山学校運動場で行われた第2回日本選手権の棒高跳で2m82の日本新。
「練習の思い出」
戸塚球場の一隅にジャンプの砂場を作って練習した。
一隅と言ったが、あれはレフト側だった。ランニングは野球練習のない時、200m位のトラックを想定して線を引き走りまわった。
                                                             吉田愛七(大正9年卒)
大正5年(1916年) 三吉、第1回東西対抗の棒高跳で3度目の日本新。
大正8年(1919年) 本郷で第1回関東学生(関東インカレ)開催。
慶応に32点差をつけ初優勝を飾る。
大正9年(1920年) 2月14,15日、第1回箱根駅伝
参加したのは早、慶,明,東京高師の4校。
スタートは午後1時,箱根のゴールは午後8時半。雪が降る中、松明とかがり火で選手を迎えたという。
東京高師が優勝,早稲田は3位。
5月、第1回早稲田対関学対抗戦(以後は早関戦で統一)
兵庫・鳴尾競技場で行なわれ45-63で敗れる。これをきっかけに学校間の対抗競技が全国に広がる。
関東学生は高師に4点差の2位。
アントワープ・オリンピック
三浦弥平、マラソンに出場
大正10年(1921年) 第2回箱根駅伝3位。(出場7校)。
牛込区下戸塚町の早稲田第一高等学院に1周280mの専用トラック新設。
本来は陸軍省の土地で、現在は穴八幡の向かい戸山キャンパスの文学部校舎になっている。
当時あった高石記念プールは、地下に潜ってしまったが現存している。
新設の早高グラウンドで第2回早関戦。奮起して80-28で雪辱。
関東学生は帝大を押さえ優勝。
「280mのトラック」
あの一周280mのトラック・フィールドこそ、早稲田がインターカレッジの制覇を持続し、多数の優秀選手を生んだ霊場だったと偲ばれる。(中略)
跳躍の砂場は一つだけ、走高、走幅、棒高の選手は交通整理のシグナルを合図しつつ練習し、円盤、やりの矛先がトラックに突っ込んでくるのを気づかいながら走るランナーの姿あり、所狭しの練習風景だった。よくけが人が出なかったと思われる。
近くに高石勝男記念プールがあり、柔剣道道場もあって気分も引き締まり、トラック周囲の森の丘の上にあった陸軍戸山軍楽学校からりょうりょうたる楽の音が響き、夕暮れには森の彼方のねぐらへ帰るカラスの鳴き声、林に雉の音も聞え、荒々しくまた静かなトラックだった
                                                            北村太市(昭和3年卒)
大正11年(1922年) 第3回箱根駅伝(10校出場)河野一郎,謙三兄弟の区間新のたすき渡しで復路で逆転、初優勝
メンバー(細川曽市、三村二郎、大江正行、栃尾彦三郎、麻生武治、
     内田庄作、河野一郎、河野謙三、枇杷坂実、行田重冶)
関東学生2位。
大正12年(1923年) 箱根駅伝は山下りで逆転し2連覇。
メンバー(富岡謙吉、細川曾市、高橋謙三、仲村政、河野謙三、
     三村二郎、河野一郎、大江正行、縄田尚門、行田重治)
早高グラウンドで第1回早慶対校陸上(以後は早慶戦に統一)。早稲田は予選会をしてメンバーを選んだ。
すごい雨でスターとの穴を掘ると水が流れ込んでただごとではなかったという。
大熱戦も最後のリレーで逆転され、27.5/6−29.1/6で慶応に惜敗。
関東学生は2位。
「不滅の大記録」
 わたしは、いまでも陸連の会合なんかでよく言うのである。〔中略〕
日本で、今までに、自分の作ったレコードで更新されてないのは、おれ以外にいないじゃないか」、と自慢するのだ。
「河野さん、そんなことはないでしょう」と誰も本当にしない。
「考えてもみたまえ。おれが〔箱根の〕山登りをやったのは、大正12年の関東大震のの年だよ。大震災で箱根の山がガラ
ガラに崩れて、その次の年からは山登りのコースが変わってしまった。だから、おれのレコードはだれにも破られていな
いじゃないか。
まさに不滅の大記録だよ」と、話を落として大笑いをするのである。
                                               河野謙三(大正12年卒)「スポーツと人生」より
大正13年(1924年) 箱根駅伝3位。
第2回早慶戦、またも4点差で惜敗。
慶応は自校のグラウンドに早稲田と同じ280mのコースを作り練習をしたという。
パリ・オリンピックの代表選手選考で私学が軽視されて、いわゆる「十三校問題」発生、関東学生は中止になった。
早高グラウンドで十三校対抗開催。
パリ・オリンピック
三浦弥平(OB)マラソンに出場。

早大入学前の織田幹雄(広島一中)三段跳で6位入賞。
大正14年(1924年) 箱根駅伝2位。
一年生の仕事」
早稲田入学の1年目は,授業が終ると真っ先にグラウンドに飛び出し、まず砲丸や円盤、やりや走高跳の器具などを揃える。それからスコップで砂場を掘り起こしてならすと、次は一周280Mの整備が待っている。これを上級生がやってくる前にきちんとやっておかなければならないのだ。
オリンピック選手だ日本のトップ選手だといって優遇はされない。大学にいけば一年坊主はやはり一年生である
                                                織田幹雄(昭和6年卒)「我が陸上人生」より
第3回早慶戦、30-27で初勝利。
主将に短刀が送られ、もし負けたら自決せよと言う脅迫状が舞い込んだという。勝利が決まると沖田芳夫が立ち上がり、大きな柱に抱きつきわっと大きな声を放って泣き出したのは有名な話。織田幹雄も「こんな苦しい競技はこの時だけ」と書き残している。
関東学生優勝。このあと13連勝の快進撃。
大正15年(1926年) 箱根駅伝は不出場。
関東学生優勝。2位慶応に54点差の圧勝。
「新入生の見たグラウンド」
一周280mの戸山ヶ原のせまいトラックが普段の練習場です。
そこで走ったり跳んだりしていると円盤や槍やハンマーがしょっちゅう飛んできますから油断も隙もありません。沖田芳夫さんなんかが「それっ、いくぞー」と大声で喚起しておいて投げるのを、ほかの部員は横目でにらみながら練習するのです。でも、事故なんか一度も起きませんでした。あれは樫だったか、何だったのか,第一コーナーのところに大木が植わっていまして、いつも競走部長の山本忠興先生がその木陰にたたずんで、僕達の練習をじーっと見ておられました。
                                                             南部忠平(昭和4年卒)