【第95回プログラムから引用】

 
 早慶対抗陸上競技会が最初に計画されたのは、大正12年の始め、寒い冬の日に、当時の早稲田大学の主将、河合勇氏と内田庄作氏、慶應の主将芝川亀太郎氏の四者が廣兼氏の家に相会したときのことでした。
 早慶戦の花形ともいえる野球の早慶戦が、両校の敵対心の激化によって明治39年に中止されて以来、当時どの競技の早慶戦も行われていませんでした。この事態を受けて「まず陸上で手を握って全競技に亘る早慶対抗競技実現の気運を醸成し、両校の親睦を図ると共に両校の固き握手に依って日本運動界を正しく導かう(第19回大会プログラムより抜粋)」という理想のもと、計画が進められたのが現在も生き続ける早慶戦誕生のきっかけとなったのです。

 しかし、簡単にうまくいったわけではありませんでした。神宮競技場で行われた第3回早慶戦においては、400mのレースにてインターフェア(進路妨害)問題が勃発しました。現在の400m競走ではセパレートコースで行われていますが、早慶戦の開始から3年、当時は未だオープンコースでした。
 この案件を受け、この年以降の早慶戦ではセパレートコースに改善されましたが、次の年に行われた第4回早慶戦においては1500mで再びインターフェア問題が発生しました。そのうえ、両校選手がインターフェアの抗議を出し、議論は紛糾、結果が下るまで一時間以上もの時間を要し、その末再レースが決定されたものの、慶應側は1500mのみならずやり投げ、800mRまでも棄権する事態となりました。
 このような紆余曲折を経て、早慶戦は徐々に整えられていき、今日の私たちに受け継がれております。

そんな早慶戦の歴史にも、戦争
 昭和16年には関東インカレは行われたものの、日本インカレと日本選手権は中止に追い込まれたことから、早慶戦の中止が間近に迫っていました。昭和17年には日本学生陸上競技連合が、「陸上競技」を「陸上戦技」と改め、手りゅう弾投げや重量運搬、武装行軍競走等、国防的なものが行われるようになっていました。相次ぐ物資不足から青少年のスパイクシューズの使用も禁止されはじめ、ついに戦局の緊迫化により早慶戦のみならず、練習さえ困難な時代に突入していきました。
 そしてついに昭和18年、日吉グラウンドに舞台を移し、戦時中最後の早慶戦が行われました。すでにインカレは中止され、スパイクを履いて競技したのはこの年の早慶戦だけであったと推測されています。この後、スパイクシューズは使用禁止に追い込まれ、泣く泣く手持ちのスパイクをグラインダーでそり落とし、底を平らにすることを余儀なくされました。戦局の悪化により、ついに練習までもままならない事態に追い込まれることとなりました。 
 終戦後、早慶戦が再開されたのは昭和21年9月のことでありました。21回大会閉幕から3年、競技用品及び練習は充分ではなかったものの、両校の熱意により再開される運びとなります。
 それから数年、器具及び資金不足は続きました。復活後第2回大会(通算でいうところの第23回大会)で全種目復活を遂げたものの、やり投げにおいては練習投擲中に早稲田の槍が1本しか残存していない中、慶應の槍が全て折れてしまい、米国製の槍を借用するという不測の事態が起こりましたが、なんとか競技は成立しました。部費を稼ぐためにダンスパーティーを開催し、手分けして切符を売ってまわったこともあったようです。

幻の「ノーゲーム」
 そんな中、95年もの歴史を誇る早慶戦の歴史の中に「ノーゲーム」と記された対抗競技会があります。それがこの第25回、26回早慶戦です。第二次大戦が終戦を迎え、日本は新たな学制を敷かれることとなりましたが、なにしろ世相が混乱していたため、大学当局側も学籍調査が行き届かなかったことが災いし、この2回の早慶戦にも正規の学籍を持たない選手が出場してしまっていました。このことを受け、早稲田側からの申し入れにより、この2回の早慶戦は勝敗も記録も抹消された幻のゲームとなったのです。
 第34回では早慶戦史上初のナイトゲームが国立競技場で行われたり、第60回大会から電気計時を採用及び東京六大学の招待を行うなど、諸先輩方は早慶戦をよりよいものに変えるべく、時には時代の波に翻弄されながらも奮闘してこられたことが、以上の歴史より読み取れることかと思います。現代の早慶戦運営のバトンや襷を受け取った私たちがすることは、95回の思いが詰まったこの早慶戦をさらによりよいものとして未来の後輩たちに引き継ぐことでしょう。この度無事第95回早慶戦が実施される運びとなったことを心より御礼申し上げます。


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