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1905年(明治38年) |
3月 |
30日 広島県安芸郡海田市(かいたいち)町、現在の海田町稲荷町で生まれる。 |
1918年(大正7年) |
4月 |
海田小学校の前身、鼓浦尋常高等小学校卒業広島一中(現在の国泰寺高校)に入学。全国トップレベルのサッカー部に入る。 |
1920年(大正9年) |
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アントワープ五輪の十種競技選手、野口源三郎の講習会に選ばれて参加。 |
1921年(大正10年) |
4月 |
広島一中4年。新設の「徒歩部」(陸上競技部)に入る。1年上の沖田芳夫とは後に早稲田大学競走部でも共に活躍することになる。 |
1922年(大正11年) |
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広島一中5年、17才。極東選手権の予選会で走高とび1m73、走幅跳で6m29の日本記録を樹立。三段跳は日本記録にあと7cmの13m38 |
1923年(大正12年) |
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広島高等師範付属臨時教員養成所に入学。大阪で行われた第6回極東選手権の走幅跳、三段跳で優勝。 |
1924年(大正13年) |
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高等臨教2年生、19才。 |
7月 |
第8回オリンピック・パリ大会に出場。跳躍では只1人の日本代表。走高跳は1m83を跳べずに予選落ち。三段跳で14m35の日本新記録で6位。日本陸上では初の入賞を果す。
(5位の記録は14m97)、自分と他の五選手の記録には相当大きな実力の差があり。入賞出来たのは幸運であった。
次のオリンピックでは三段跳で三位以内に入ってやろうと心に決めた。
三段跳を正式に練習しはじめてから二年間に約二米記録が伸びたから、今から4年であと1mくらい記録を伸ばすのは無理ではない 〜〜〜日記より |
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1925年(大正14年) |
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早稲田大学第一高等学院入学、競走部に入部。グラウンドは一周280mしかなかった。
早稲田大学の一年生は授業が終わると真っ先にグラウンドに飛び出し、まず砲丸や円盤、やりや走高跳の器具などを揃える。それからスコップで砂場を掘り起こしならすと次は一周280mの整備が待っている。これを上級生がやってくる前にきちんとやっておかなければならないのだ。オリンピック選手だ日本のトップ選手だといって優遇はされな。大学に行けば一年坊主はやはり一年生である。〜〜〜「我が陸上人生」より |
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4月 |
極東大会予選の十種競技で6359.935の日本新記録。 |
5月 |
第7回極東大会(マニラ) 三段跳、14m05で優勝。 |
6月 |
第3回早慶対抗陸上 けがで100m、走高跳は不振、走幅跳で2位。2連敗の早稲田の主将に短刀が送りつけられ、負けたら自決せよという脅迫状が舞い込んだ。結果は30-27で辛くも初勝利。
突然沖田君が立ちあがり、大きな柱にだきつき、わっと声を放って泣き出した。2度の敗戦を経験している沖田君にとっては、たまらぬ喜びの涙であったに違いない。最後の800mリレーも勝ち、早大の願いはかなえられたが、不振に終わった私にと大きな救いだった。こんな苦しい競技はこの時だけだった。〜〜〜「早稲田大学競走部七十年史」より |
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7月 |
第5回早稲田対関学で走り幅とびに7m19の日本新記録。 |
10月 |
関東学生 走幅跳、三段跳で優勝、走高跳、棒高跳で2位。 |
11月 |
日本選手権 三段跳14m315、十種競技も6307.47で優勝。 |
1926年(大正15年) |
5月 |
日本選手権、走幅、三段で優勝。400mリレーは3走織田、アンカー南部忠平で日本新の優勝。リレーは殆どが3走だった。対校戦では万能選手として得点稼ぎの役を果し、早大の優勝に貢献した。
一高戦では8種目で18点、早慶陸上ではリレーと跳躍3種目で優勝、100mで2位。関東学生は一人で25点1/3を稼いだ。
しかし、こうした得点稼ぎばかり試みていて、三段跳の練習が十分できず、記録も振るわなかったので、朝日新聞に織田の力は限界だと書かれ、大いに反発心を燃やした。〜〜〜「早稲田大学競走部七十年史」より |
三段跳(トリプルジャンプ)は「ホップ・ステップ・ジャンプ」と呼ばれていた。「三段跳」と命名したのは織田である。 |
1927年(昭和2年) |
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早稲田大学競走部は黄金時代に。 |
8月 |
日本選手権、三段跳で15m34の日本新で優勝。
続く、マニラでの第8回極東大会でも走幅跳,三段跳(15m355の日本新)十種競技で優勝。
オリンピックの三段跳で3位入賞を考えていたから、新聞に限界と書かれたのに反発して、前年のシーズンを終るともっぱら三段跳の研究と練習に入った。
足首の力を強めキック力を増すために、天井や樹の枝に向かって、絶えず跳びあがった。
練習は助走の方法から、各跳躍の割合などを考えて実施したが、シーズン前になると恐ろしいほどの跳躍力ができあがった。〜〜〜「競走部七十年史」より |
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1928年(昭和3年) |
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早稲田大学商学部1年生、23才。 |
5月 |
日本選手権、三段跳で15m41の日本新。
第1回日本学生、110mH、走幅、三段で優勝、走高は2位。 |
6月 |
第9回オリンピック・アムステルダム大会目指し早大競走部は代表団より早く出発。
オリンピックの陸上男子代表16人のうち早稲田は9人を占めた。
東京から汽車で広島を経て下関から船で釜山〜京城へ。
止まる駅毎にプラットフォームを走って練習の初めとする。〜〜〜日記より |
シベリア鉄道で欧州へ。資金が十分ではないため三等車で旅行。食堂車には1日1回だけ、あとは持ち込んだ食料で賄った。 |
7月 |
山本忠興部長の奔走でケンブリッジ・オックスフォード両大学の連合軍「アキレスクラブ」と早稲田大学がロンドンで対抗戦。単独の大学として初の海外遠視の歴史を刻んだ。
織田は走幅跳で1位の他は走高が3位、120ヤードハードルで転倒して4位に終った。
試合は34対31でアキレスクラブに惜敗。
我軍はリレーは勝ったけれども遂に三点の差を以てやぶれた。ハードルに失敗せずハイジャンプにも失敗することがなかったならば楽々と勝つ事が出来たのに。
思えば無念と言わざるをえない。他の選手達にたいして本当に会わす顔がない。(中略)
唯オリンピックに優勝するのみだ。若し再び此処にも敗れる事あらば其の時こそ最後だ。〜〜〜日記より |
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1928年(昭和3年) |
7月28日 |
アムステルダム・オリンピック開幕。走高跳は1m88で8位。 |
8月2日 |
三段跳予選、15m21のトップで決勝へ。結局この記録が残って日本初の金メダル! 南部忠平は惜しくも4位。
遂に永い間の苦心は報いられた。日章旗が高々と掲げられ国歌が奏せられた時は自然と頭が下がり国旗をあふぐことさえ出来ず涙が自然にあふれ出た。スタンドに待って居た選手諸君にかつがれて控室に帰った時にはまるで夢を見て居る楊だった。(中略)永い永い競技生活を通じて初めて勝利の喜びにひたることが出来た。成績は思はしくなかったけれども重い重い責任をはたし得た事は何よりも嬉しい。(中略)人見嬢も八百で頑張って二等になった。二つも国旗を揚げることが出来た今日の日はなんと日本にとって幸運な日だったらう。私の一生の最も記念すべき日なのだ。国の人々はどんなに喜んで呉れるだろう。敗れたならば合わす顔はないのだったが此れで同胞に顔を合わせる事が出来る。〜〜〜日記より |
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第2回国際学生大会(パリ)
早大チームに京大の相沢巌夫を加え、日本初の国際学生陸上競技会出場となる。110mH、走幅跳4位、走高跳と五種競技6位。 |
10月 |
関東学生、100m5位、110mH優勝。 |
1929年(昭和4年) |
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競走部主将となる。 |
5月 |
日本学生、2位慶応に61点差をつけ優勝。走幅跳、三段跳、400mリレーで優勝、110mH、走高跳、棒高跳で2位。 |
11月 |
日本選手権、400mリレーと三段跳優勝、十種競技は2位。 |
1930年(昭和5年) |
5月 |
日本学生、走幅、三段、棒高、400mRで優勝、110mHで3位。極東大会(神宮)三段跳で4連覇。走幅跳2位。 |
6〜7月 |
国際学生陸上を目指して欧州を転戦、8カ国で競技会を行う。
この遠征は資金が十分集まらず、欧州での競技で大部分を稼ぐほかなかった。滞在費、旅費、日当などを得て、旅興行などのように国際対抗、国際競技会に出るほかなかった。〜〜〜「競走部七十年史」より |
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8月 |
ダルムシュタット国際学生大会。走幅跳7m30で優勝、棒高とびは4位。早大からは8人出場、日本はドイツに次ぎ2位。 |
1932年(昭和7年) |
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27歳 |
3月 |
台湾で指導中に足を負傷。 |
7月 |
第10回オリンピック・ロサンゼルス大会。コーチ、主将、選手として出場。 |
8月 |
三段跳は怪我が回復せず予選落ち。南部忠平が15m72の世界新で金メダル。走幅跳でも銅メダルを獲得した。 |
11月 |
結婚。負傷もあり、競技の第一線から退く。 |
1934年(昭和9年) |
10月 |
日本選手権(甲子園)。走高跳、1m85で2位。「競走部七十年史」によればこれが最後の記録。 |
1936年(昭和11年) |
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第11回ベルリン・オリンピック。三段跳で田島直人が16m00の世界新で優勝。日本は3連覇。
日米開戦。 |
1940年(昭和15年) |
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東京オリンピック中止。 |
1942年(昭和17年) |
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早慶陸上。両校選手が戦死した棒高跳の大江季雄(慶応)ら仲間の遺影を抱いて行進。 |
1943年(昭和18年) |
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戦前、最後の早慶陸上。 |
1945年(昭和20年) |
8月15日 |
終戦。 |
11月 |
東京で陸上競技連盟再建準備会。 |
12月9日 |
東大競技場で織田らの音頭とりで競技会。敗戦から4ヶ月足らず、日本陸上は焼跡の中から不死鳥のごとく復活した。
自分も出場した走高跳は早稲田の後輩田中弘が1m75で優勝した。
もう寒さも加わった12月9日、復活陸上競技会を開いた。
日本全国からその機を待ちかねていたかのように、陸上競技の愛好者が集まってきた。押入れの隅にでもほうりだしてあったか、いやもっと大切にしまってあったであろうスパイクシューズを皆はいていた。永い間、練習というものから遠ざかっていたから、足も腕も伸びず、運動会時代を思わせるような競技ではあったが、集まる人の顔には、よろこびがあふれていた。〜〜〜「早稲田大学競走部七十年史」より |
この日、平沼亮三を会長に日本陸上競技連盟が発足し、織田も理事に選ばれた。 |
1948年(昭和23年) |
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JOC(日本オリンピック委員会)委員。 |
1952年(昭和27年) |
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第15回オリンピック・ヘルシンキ大会。織田は日本の陸上ヘッドコーチ。三段跳で飯室芳男が14m99で6位入賞。 |
1953年(昭和28年) |
3月 |
KRT(現TBS)の「日本の百人」に出演。一番の望みはという質問に「オリンピックの三段跳で日本選手を優勝させること。長嶋茂雄のような素質の人が欲しい」と述べている。長嶋はこの年にプロデビュー。 |
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1956年(昭和31年) |
10月 |
仙台市宮城野競技場の日本選手権、三段跳。ラジオ解説をしていた織田の目前で早大OBの小掛照二が16m48の世界新記録。 |
1958年(昭和33年) |
5月 |
新装の国立競技場でアジア大会開幕。織田は聖火ランナーの最終走者を務めた。第4コーナーのメインポールに大会旗を掲揚。ポールの高さ15m21、アムステルダム五輪の三段跳で優勝した織田の記録と同じ。これ以来「織田ポール」として国立競技場のシンボルとなる。 |
1964年(昭和39年) |
10月 |
第18回オリンピック・東京大会。織田は陸上の総監督、監督は南部忠平。 |
1965年(昭和40年) |
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早稲田大学教授就任。 |
1967年(昭和42年) |
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第1回織田記念陸上(広島)開催。現在も春季サーキットの中心として続いている。 |
1970年(昭和45年) |
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早稲田大学競走部部長就任。48年まで4年間務める。 |
1976年(昭和51年) |
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IOCオリンピック功労賞受賞。 |
1982年(昭和57年) |
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早稲田大学スポーツ功労者(第1号) |
1985年(昭和60年) |
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東京都名誉都民に。 |
1986年(昭和61年) |
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故郷の海田町名誉町民に。 |
1988年(昭和63年) |
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文化功労者。
早稲田大学所沢図書館に「織田文庫」創設。 |
1989年(平成元年) |
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日本陸連名誉会長就任。 |
1998年(平成10年) |
12月2日 |
永眠。享年93歳。 |
12月25日 |
国立競技場でお別れ会。
神奈川県北鎌倉の東慶寺に眠る。 |
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